「タルパのオート化」という言葉をよく聞きます。
これは一般的には “タルパが独立した意思を持って自律的に行動すること” を意味しますが、果たしてそのようなことは可能なのでしょうか?
自分と他人が違うということは誰もが理解していることです。
それでは “オート化したタルパ” は自分であるのでしょうか?他人であるのでしょうか?
『オート化』の条件としては “独自の意思” や “自発的な行動” が含まれるので、もしタルパがこれらを完全にできているとすれば、そのタルパはれっきとした “他人” になります。
しかし、タルパの原理から考えると、タルパは保持者の脳内で完結するものとなります。タルパの意思決定は全て保持者の脳が行っているということになります。
そのような状態でタルパに独立した意思を持たせられるのでしょうか?
タルパの原理とオート化の概念は、互いに矛盾しているように思えます。
そもそも、自分とは異なる思想を持つということはその思想が自分の一部でない事が条件です。自分の脳内で起こっていることの一部であった場合、その時点で「自分の思想である」と言えてしまうからです。
タルパを動かしているのは保持者の脳の他なりません。
つまりどれだけタルパ独自の思想が現れてきていると思っても、それは「自分のものの見方が変わった」「多角的な視点を身に着けた」ということに過ぎません。
「タルパは所詮自分の主観だ!」
こう主張する人でさえ、「オート化」という言葉を口にします。
本来であればタルパが自分の主観であればオート化は成り立ちません。しかしタルパー達は「タルパの思想はタルパーの思想の一部である(=オート化していない)」「自分が思ってもいないことをタルパが言ってきた(=オート化している)」と矛盾したことを言っているのです。
ここからタルパーの本質が見えてきます。
多くのタルパー達はこのような矛盾した内容を両方受け入れることができます。これは言い換えれば「一つの物事を相反した立場から考えることができる」ということになります。
その相反した立場はどちらも自分自身の意見であることには変わりありません。
しかしそれがタルパをオート化させるにおいて重要になってくるポイントなのです。
『オート化』とは、すなわち「考えを切り離すこと」ではないかという結論に行き着きました。
相反した意見を持っている時、それがどちらも自分の意見として取れるような時はまだオート化していないと言えます。オート化がうまくいかないタルパーが「タルパの考えか自分の考えか分からなくなる」と言いますが、まさにそれです。
相反した意見をタルパの意見として自分から切り離せる時、それは『オート化』と言えます。「これは自分の考えで、これはタルパの考えだ」と完全に切り離せることにより、あたかも他人が存在しているように感じ取れる、それをオート化と呼んでいるのです。